その教科書に落書を


「ごめんー、歴史の教科書貸して」
「お前が忘れるなんて珍しいな、熱でもあるのか」
 隣のクラスからコソコソと、やってきた彼女、森園美林。去年俺と同じ文化委員に入っていた際に仲良くなり、たまに世間話を話したり、相談に乗ったりする間柄。俺にとって、今では仲の良い友達の一人になっていた。
 そんなある日のことだ。
 セミロングの髪を揺らし、隣のクラスからヒョコヒョコと寄ってきた。そして、謝りながら腰を落として手を合わせきた彼女。そのお願いする姿は高貴な方が神社への参拝客を彷彿させた。
 服装は制服だけど。
「いやね、昨日うっかり寝てしまって、うっかり遅刻しそうになってしまって、ついうっかりね」
 はいはい、うっかりね。こうもうっかりが続くなんてどこぞの八兵衛もビックリだな。昨日も俺に古典の教科書を借りに来たことも、うっかりで済ませるのか?
「ってなわけでお願い」
 今日俺のクラスでは歴史の授業はないが、俺は置き勉気質なので関係ない、歴史の教科書ぐらいはある。自分の席の棚をゴソゴソ探ったらあっさりと教科書が出てきた。
 特に断る理由もないので俺は彼女に教科書を貸した。
「今日は、うっかり落書するかもしれないけど、別にいいよね」
 おいおい、今日はってどういうことだよ? とりあえず俺は冗談交じりに言い返す。
「その際は森園の教科書と交換するぞ」
「私の教科書、織田信長の額に肉の字が描いてあるけど、それでよければ」
 強烈な捨て台詞を言って森園美林は去っていった。
 言葉の強い奴だ、ぐうの音もでねえ。

 授業終了のチャイム。
 苦手な数学を眠さと格闘しながらなんとか持ちこたえた俺を褒めてやりたい、なんて思いつつ、授業で使いすぎた頭を休めるよう、体を伏せていると背中をトントンと叩く感触。
「おーい、教科書返しに来たよー」
 俺は体を起こし、声のする方へと顔を向ける。
 心なしかモジモジしたような顔に見えるのは錯覚か? 嫌な予感する。
「何でそんなモジモジしてんだ? もしかして破いたとか?」
 そんなことしないよ、と言って首を横に振る森園。
「じゃあ、落書したとか」
 森園は沈黙、さてはビンゴか。
「まあしょうがない、歴史の授業も眠いし、つまらないしな。ある程度は大目に見るよ」
 適当にページを開いてみる。ああ確かに落書が。目立たせないように配慮しているのか分からないが、教科書の右下の方にあるな……適当にページを開く、ってここにも落書。さらに適当に……ここもかっ!
 さすがにこの惨状に呆れた。限度を知ってくれよ、消すの面倒なんだから。たかだか五十分の授業だぞ。よく描けました、なんて褒められると思ったのか。
「もう、教科書貸さないからな」
 冷酷だけどそう言った、俺のためにも、俺の教科書の為にも。
「ええっ、それは酷いよ」
「酷いのはどっちだ」
「そ、そんなことより私の書いた落書は実は……」
「落書はもういい! 俺の教科書滅茶苦茶にしてくれて。消すの大変なんだぞ!」
 つい語気を荒げてしまった、そのせいか森園はショックを受けてそのまま走り出してしまった。
 酷いよ酷いよと言いながら。
 ……泣かせてしまった。
 悪いのって俺なのか、森園に落書された俺はどちらかというと被害者なのに……なんだかすごい罪悪感を感じる。
「落書、ね」
 呟き、教科書をパラパラと捲る。
 あれ、これって……。
 落書と思っていた一つ一つの絵は一つの物語を紡ぎだし、捲るごとに絵は変化し、それは見事なパラパラ漫画になっていた。
「あいつ……」
 俺は教室を飛び出した。

 パラパラ漫画の内容はこうだ。
 二人の男女が階段を上っていく摩訶不思議な内容だった。一階『友達』から階段を上り始め、二階の階段の手前でこのパラパラ漫画は終わっていた。ちょっと考えると、それが何を意味しているかを理解することが出来た。この階段の意味を。これはシュールすぎると言わざるを得ない内容だったし、正直つまらない内容だった。このパラパラ漫画の主人公が俺と森園でなければ。
 彼女なりの精一杯のアプローチだと俺は受け取る、伝える方法はどうであれ、きっと返事を聞きたかったのだろう、何かしら俺の反応を見たかったのだろう。
 この言葉は正直、俺はすごく嬉しかった。しかし、あまりにも唐突で受け入れられない自分も少なからずいた。彼女のことが嫌いではない、むしろ好きなほうなのだが、いくらなんでも唐突過ぎた。
 しかし、考えてる時間はあまり無い。彼女は俺の言葉できっと傷ついている、何か言わないと、慰めないと、友達ですらいられなくなりそうだ。
 俺は、森園と話をするために隣の教室へ行った、しかしそこに姿はなかった。次の授業開始のチャイムまで待ってみるが、戻ってくることはなかった。
 俺はまとわりつくような嫌な予感を覚え、そして焦った。いくらなんでも授業をサボるなんて。俺は、授業もそっちのけで理科実験室、校庭、体育館、その裏、ありとあらゆる教室を周るが見つからない。
 なんて馬鹿なことをしてしまったんだろうと後悔の念を噛み締める。普通傷つくよな、森園が一生懸命に書いた想いを、伝えようとした想いを、遮るように怒鳴ってしまって……そうしてブルーになりながら、申し訳ない気持ちいっぱいで最後の場所、屋上へと少しの期待を持ちながら向かった。
 いた。
 少し傾いた十月のほの温かい太陽の光を浴びて、森園は泣いていた。フェンスにつかまりながら、グチャグチャに鳴った声で捻り出す様にして何かを言っている。
 自分は精一杯をやったのに。何で伝わんないの、と。その弱々しい小さな後姿は語っているようだ。
 なんて言葉をかければいいんだ。探していたのに、いざというときに言葉が出ない。
 あれはパラパラ漫画だったんだな、一本とられたよ、か?
 一枚一枚どれも絵が上手だったよ、漫画家になれるよ、か?
 いやいや、早まってはいけないな、しかしこう眺めているだけなのもよくない。
 よし、ここはど真ん中ストレート。
「悪かったな怒鳴ったりして」
 森園がこちらに振り向くことなく。涙を袖で一拭きし、口を開いた。
「もういいよ」
 俺の言葉に負のオーラをこれでもかと放出しはじめた、そして周りの空気をトコトン下げる彼女。さっきまで取り乱して泣いていた人間とは思えない。
 直球は失敗か。正直、この場面で心の整理も出来てないのは痛手だ。
「後で教科書の落書、全部消すね。これで許してくれるよね」
 声のテンションを変えず、ネガティブを貫き通そうと淡々とした口調で続ける。
 俺は何だか、ちょっとイライラとした。開き直った森園の言葉が鼻につく。お前の精一杯は回りくどい一回の失敗で諦めるのか。
「それじゃあ許せないな」
「……だったら、私の教科書と交換しようよ、それで気が済むのだったら」
「織田信長の額に肉が描いてある教科書なんていらねえよ」
「そう、だよね」
 俺って曲がってるなと思った、何で森園の聞きたいところを素直に返せないんだろう。
 どうしようかと悩んでいると、俺に一つの考えが浮かんだ。交換……その手があったか。
「といいたいところだが、交換で許してやるよ。そっちのほうがまだよさそうだ」
「うん……じゃあ教室に教科書あるから持ってくるね」
「いや、今日はもういい、明日持ってきてくれれば」
「そう……」
 沈む夕日の中、最後まで彼女はブルーだった。

 翌日の昼休み。
 教科書を渡すために森園のいるクラスへと向かう。一日置いたことは大きい、昨日は探すことで焦っていたこともあって、物事を冷静に見ることが出来ていなかった。
「ほれ、もう落書するんじゃねえぞ。って言っても交換だけなんだがな」
 俺は昨日言ったとおり、教科書を交換で許してやろうと思い、森園と教科書を交換する。
 どうやら彼女も落ち着いているようだった。
 彼女は確かめるようにパラパラとページを捲り始める、何か返事が書いてあることを期待したのだろうか。そしてガックリと肩を落とした。まるでやっぱり私の本心に気付いてないのねみたいな感じで、なんて鈍感なのみたいな事を言いたそうだ。
「悪いな森園、昨日怒鳴った後なんだが実は俺、気がついてたんだ。あのパラパラ漫画の意味」
「へ?」
 森園は間の抜けた声を上げて、俺を見つめた。そして顔を真っ赤にさせて眼を伏せる。
「今度は森園が俺の変化球に気付いて欲しいな。それまで待ってくれないか?」
 彼女と争うわけではないけど、俺も変化球を投げてみた。気付くのはいつになるだろうか、とりあえず今年中ということは間違いないだろう。その時には俺も準備が出来ていると思う。
 年表が真実の出来事を表すのだとしたら俺は森園美林と恋人同士になるだろう、そう思う。
 なぜなら、俺は森園に渡した教科書の年表に追記しておいたからだ。
『二〇〇八年 森園美林と恋人同士になる』と。