私が願ったこと、彼が願ったこと


「ここがそうなんだ」
 彼が連れて行ってくれたのは、恋が将来成就し、幸せにしてくれる神社だった。
「縁起いいだろ? こういうところ」
 彼は私から目を逸らし、恥ずかしそうに顔を人差し指でポリポリと頬をかいた。ちょっと大げさでわざとらしい演技が、私は好きだった。
「祈るんでしょ? その恋の神様ってのに」
「ああ、こういうのもあってもいいと思ってな」
「ミーハーなんだね、本当にかわいいんだから」
 私は口元に手を当てて小さく笑った。彼はツンと顔を逸らして手を合わす。
その姿を見ながら本当に不器用な男なんだからと思う。
 彼が祈り始めるのを見て、私は賽銭箱に五円玉を入れた。そして静かに手を合わせて目を瞑る。彼とずっと一緒にいられる未来を描きながら、この幸せがずっと続くように願った。
 十分な祈りを捧げ、合わせていた手を離す。
 隣を見てると、彼はまだ祈っているようだった。
 あれから何も変わらない静かで平穏な日々を過ごした。半年ほどたっても、彼と私の中は変わらない。
 どこに行くにしてもいつも楽しい時間を共有できた。遊園地、動物園、水族館にショッピングセンターに……もう数えだせばキリがないほどの思い出を作った。
 そんなある日のことだった。彼は小さく息を吐いて、私と面と向かった。何かを決心したかのような顔つき……いつもよりキリッと吊り上げた眉を見て、私はハッとする。
 何を言うのだろう……何を言っても私の心の準備は十分に出来ていた。結婚の可能性もすでに頭に入っている。彼との関係も一年弱になる。何を言っても驚かないつもりだった。
 向き合ったままわずかな時間がすぎた。
 右頬を撫でる風。なびく髪を左手で押さえる。彼の鋭く真剣な目はそのままだ。私の心臓は大きく高鳴った。しかし、彼は何を言わずに、いや、なんでもないと言った。
 期待感が一気に下がった。でも私は不器用な彼をずっと待つつもり。あの言葉を聞くのを心待ちにしながら。
 それにしても今日の彼……少し変だなと思う。
 こんなにもテンションが低く見えたのはなぜだろう。
 彼は、何かを言い出せずにしてどもってしまっていた……言い出そうとしている言葉は本当に、私の期待する言葉なの?
 嫌な予感だけが残った。

 その予感は的中した。
 あの日からだった。彼と連絡がつかなくなったのは。

 彼と音信不通になってから一週間が経った。
 私が期待した言葉は、彼の口から聞くことは出来なかった。
 彼の真意は、彼の母親から電話で聞くことになってしまった。
「それ、本当ですか?」
 声が裏返ってしまったかもしれない、でもそれを確認することもできないほど狼狽していたのだろう。受話器を持つ手が震えてとまらない。
「はい、だからもう息子のことは忘れてください」
 全身の力が抜け、虚無だけが体を支配した。頭の中は白く染まっていき、何もまとまらない。
 何を言い出せばいいのかわからないまま、口からあふれるように出たのは、悲しさを伴う怒りだった。
「何で、そんなことを黙っていたんですか!」
 そして、怒鳴ってしまって後悔する。彼の母親が悪いわけでもないのに……本当につらいのは私だけじゃないこと分かってるのに。
「あ、ごめんなさい」
「いいのよ。あの子、あなたに悲しい顔にさせまいと思ってずっと黙ってたのでしょうね」
 彼は、半年前から消化器系の異常による病気にかかっていたと聞かされた。
 それもかなり重い病気らしく、ずっと病気は進行していたようだった。治療の薬をずっと飲み続けてたことも聞かされた。三日後に手術を行われるが助かる可能性はほぼ皆無だそうだった。
 絶望が全身を締め付けた。一体どうすればいいか分からなかった。
 私の生活から彼を切り取ってしまったら……そう考えると私は壊れてしまいそうだった。
 電話を虚ろに聞きながら力なく切った。
 周りが異様に静かだった。

 彼の病院へフラフラと呼び寄せられるように足が動いた。
 彼は面会謝絶だそうだと聞いたけど、進む足を押さえ切れなかった。
 彼はもう助からないそうだ。
 次に彼を見るとき……そのときには彼はもうこの世にはいない。
 最後のデートの時に彼が言いたかったのは、このことなの?
 負のイメージだけがスパイラルしていく、まるで壊れたCDレコーダーのように、繰り返される。
 追い抜いていく車のライト、肌寒くなった秋の風……いつもなら、感慨に耽りながら歩く道だった。この道を、こんな気持ちで歩くなんて。
 国道沿いを十分ほど歩いた果てに、彼がいる病院へとたどり着いた。

 日も落ちた午後七時。病院に着くなり、彼の病室へと向かった。
 表口はすでに扉が閉まっていたので、裏の受付へと周る。
 受付で私は彼の病室を尋ねた。
 しかし、看護婦さんの口からは面会謝絶ですと一点張り。そんなこと、私は知っている、知ってるけどここまで来たのは、そんな言葉を確認するためじゃない。
 もう一度彼に会いたい思いだけだった。
 いや一度だけじゃない、二度三度、これからもずっとずっと会いたかった。
「ちょ、ちょっと待ちなさい!」
 彼の病室が書かれたプレートを確認するなり、駆け足でその病室へと向かった。201号室、確かにそこに彼の名前が書かれていた。
 後ろから追いかけてくる気配、バタバタと重なるようになる音。
 追われている……そう、これは悪いこと。分かってるのに体がいうことを聞いてくれなかった。
 良いこと、悪いことなんて、この際どうでも良かった。

 201号室に着くなり、すぐに扉を開けた。
 辺りを見渡した後、彼の顔が見えた。
 よく分からない装置が彼の体のあちこちに繋がれているのが見える。彼の名前を叫ぼうとしたとき、右手を引っ張る強い力を感じる。
「困ります! 面会謝絶って何度言えば分かるの!?」
「……嘘つき、嘘つき!」
 室内で叫んだ言葉が一体何が嘘つきなのか、分からなかった。自然と言葉が出ていた。
 彼と過ごす幸せな日々を裏切った彼に言ったものだったのかもしれない。
 それとも、私の描いた幸せな未来図が、こんなにも逸脱した結果になってしまったことに対してかもしれなかった。
 はぁはぁと息が切れて心臓が思い出したかのように波打った。
「騒がないで! こっちに来なさい、本当に悪い子ね」
 看護婦さんに引っ張られるようにその場を離れることになった。
 病院からつまみ出される。
 私は……今の彼に何も出来ないことを思うと、歯痒くてしかたなかった。
 彼の命を死神の鎌が摘み取る三日後……そんな未来なら来ないほうがいいと思った。

 手術中のランプが点灯される。
 彼の生死を決定する運命の日だった。どうせ助からないこと分かっている……病院の雰囲気、ピリピリとした空気からなんとなく感じられるのだ。
 助かる可能性はほとんどないんだ。でも……もし助かるなら。そんなもしが残されていることを信じたい。
 そこに信じなければ、どうにかなってしまいそうだった。
 目を閉じて指を絡ませて、ずっと祈っていた。彼の母親も隣でずっとそうしていた。
 ……六時間くらいだっただろうか。ランプがすっと消えていく。
 手術室の中から一人の男性外科医が出てきた。そしてこう告げた。
 手術は成功しました、しかし今晩が山になるでしょう。目を覚まさなかった時は残念ながら……後は彼の生命力に賭けるしかない、と。
 私はその言葉に愕然とした。
 生命力に賭ける、医師が言ったそれは、まるで運以外は信じられないことだったからだ。

 手術室から病室に運ばれた彼。
 彼の母親は、椅子に背をもたれながら寝てしまっていた。ずっと泣いてたから。
 もう手術から十三時間が経っていた。
 ピッ……ピッと一定の感覚でリズムを刻む無機質な音。彼の正を表す装置が止まらないようにと願う。
 生命維持装置に繋がれた彼は、まるで人形使いに紡がれた操り人形のように自由がなく、見るに耐えなかった。
 そっと撫で、話しかけることしかできなかった。もう二度と目を覚まさないかもしれない彼に細い言葉で語りかけた。
「聞いてる?」「そう、じゃあまた遊園地に行かない?」「わがまま言わないから」「そうだ、またあの観覧車に乗ろうよ」「お化け屋敷もいいね」「そして、その後は……その後は」
 次々と出てくる言葉は、室内に響くばかりで返事は無い。
「ねえ、聞いてよ……お願いよ」
 彼の口元は微動だにしない。硬く閉ざされたまま、動く気配は無い。
「答えてよ、お願いよ。もうイチゴパフェ食べたいなんて言わないからさ、あの人形欲しいなんて言わないから。あなたの好きなところについて行ってあげるからさ。ねえ、ねぇ……」
 最後の方は声が震えて言葉になっていなかったかもしれない。聞くに堪えない言葉でも、聞いてほしかった。
 彼に届いていてほしかった。
 そして、手で顔を隠すようにしてすすり泣いた。
「……それ、本当か?」
 覆っていた手を退けた。あるはずの無い、聞こえるはずの無い声。涙目になった今でも確かに分かる、目を開いている彼の姿。
 驚きと嬉しさが入り混じり、時が止まったかのようたった。
「嘘……つかなかったみたいだぜ」
 彼が一体何を言ってるかが分からなかった……一昨日の私の声が届いていたことを一瞬頭をよぎった。
「どうやら恋の神様は正直者のようだったな」
 彼がにっと笑った後、私は小さくバカ……と呟いて、彼のぬくもりを感じた。